“二兎を追った”野茂英雄2008年07月18日 11:22

十数年前になるが,「オンライン・シンポジウム」というのを試みたことがある。当時,市民派(?)の人たちを吸引していたある雑誌に論考を寄せ,それを叩き台に,異論・反論等をニフティ上のフォーラム(電子掲示板)にアップしてもらうというものだった。叩き台としての小論は,まずわたしともう一人が書いた。インターネットもすでに一般に開放されていたが,日本でWindows95のフィーヴァが話題になる何ヶ月か前というタイミングであった。つまり,パソコンそのものの普及にはずみがつく以前のことであった。「オンライン・シンポジウム」そのものは,一月ほどいくつかのやり取りがあって終息したように記憶している。いまで言うSNSのハシリであった。

なぜ,このことを突然思い出したのか,といえば,昨日からきょうにかけて「野茂英雄,現役引退」が大きく報じられたからである。というのも,叩き台として寄せた小論は「情報/デジタル技術の社会的位置」というタイトルであったが,筆者紹介とともに,求められた「最近感じること」に次のようなひと言を載せたからである。

「大リーグのオールスターに先発した野茂は,この試合を実況中継したTVで,CMにも初登場した。スポンサーであるナイキのKであり,奪三振のKでもあるこのアルファベットの文字が,サブリミナルCMもどき(?)に野茂の勇姿の上にフラッシュバックするのが,ちょっと面白かった。K,K,Kだなんて。」
"Nomo as No.1"として野茂が最も輝いていた時代であった。

「野茂現役引退」で,ネット上でも様々な意見が飛び交っている。マスメディアでは,朝日の論説委員西村欣也が「野球とベースボールの間に大きな橋をかけた野茂英雄」と「スポーツ面」ではなく「社会面」に書いた。本来,“架橋”とは,此の地と彼の地が自由に行き来できることを可能にする意味であろう。しかし,現実は「野球とベースボール」が互換可能になったというよりは「野球のベースボール化」が進んでいるとしか思えない。

野茂は,おそらく本人は無意識かもしれないが,ベクトルの異なる二つのことを同時に追い求めたように思う。いいかえれば,その大いなる魅力を湛えてきたのは“二兎を追った”選手であったがゆえにではなかったか,ということである。一つは,他者の助言を断って“トルネード”という独特の投法を貫きつつ,“Major League挑戦のパイオニア”としての道を疾走した側面。もう一つは,“複数年契約と代理人交渉”を前面に押し出し,結果“ポスティングシステム導入のトリガー”となったという側面。前者は,いわば職人気質を前面に押し出す所に,その真骨頂があり,近代合理主義とは一線を画す。これに対し,後者は,いわゆるグローバル化の動きそのものであり,経済的合理主義の世界そのものである。

だから「素朴な勝負の世界に遊ぶ豪傑のすみかがどこにもなくなった」という日経新聞の篠山正幸の指摘は,至極的を得ており,すこぶる最もなことだと思うのだが,いかがだろうか。

Kスタ宮城――自分で作った弁当もご法度!!2008年07月22日 18:18

わたしたちは,食べることを楽しむ。わたしたちは,何かを口にしながら,テレビをみることを楽しむ。むろん,何人(なんぴと)にもとやかくいわれることなく楽しむのである。食べることや食べながらテレビを観ることは消費行為そのものだからである。いうまでもなく,消費のプロセスは,市場原理も及ばない次元にある。いわゆる個人的消費をやや厳密に考えれば、それは労働力の再生産過程にほかならず、具体的には家族という〈共同体〉の内部で行われる行為であり,したがって経済学の対象にはならない,ということになる。空腹を満たすのに,銀シャリにするか,中華麺にするか,はたまた洋麺にするか,は全く個人の意思の領分の問題として片付けられるのである。いいかえれば,この経済社会においては,食べる,食べない,は専ら消費主体としての個人に帰せられるべきこととして表象されるのである。

ところで,わたしたちは,ミュージック・ホールで,何かを口にしながら交響曲を楽しむことはしない。他の聴衆の迷惑になる行為という暗黙のルールを知っているからである。この場合,食べることを抑制するのは,そこにある種のモラル(ないし規範)が作用しているからであろう。

では,わたしたちは,何かを食しながらプロ野球の観戦を楽しむことはあるだろうか?もちろん,わたしたちは,ごく当たり前のこととして,これを行う。缶ビールを飲みながら焼き鳥をつまみ,ひいきのチームにエールを送る。空腹感をおぼえたら,家でにぎってきたおにぎりを頬張り,次の声援にそなえる。このような消費過程に,他者の,第三者の,介在する余地はない。

ところが,東北楽天ゴールデンイーグルスの本拠地,Kスタ(クリネックススタジアム宮城)では,この自明のことが通らないという話が出ている(河北新報,7月20日朝刊)。「飲食物の持ち込み規制が強まり」「外で買った食べ物だけでなく,手作り弁当やおにぎりも締め出す徹底ぶり」という(ちなみに,今年はまだ行っていないが,昨年までは,比較的大目に見てくれていたように思う)。「球団は『売店の売り上げを確保するために仕方ない』と理解をもとめる」とあるが,そもそも球団には,観客に対して,自分で作ったおにぎりや弁当を食べてはならない,と制限するいかなる権限もないし,そもそも消費過程に介入するいかなる根拠もないのである。他の球団でも,同様のことはあるらしいが,ここまで頑迷なケースはどこにもないらしい。なぜ,「東北」にだけ,かかる蛮行が,まかり通るのだろうか?

音楽がタダ?よろこんでいいのかなぁ2008年07月25日 21:37

毎日新聞社『エコノミスト』(07/29号)が,「音楽がタダに―iPodの成功,CD販売激減」という特集を組んでいる。苦境に立つレコード会社(業界)を切り口として音楽業界の行く末を見定める,というのがその趣旨。

レコード会社(業界)を窮地に追い詰めている要因は何か?1つは「CD不況」。CDが売れない。出荷額は10年前の半分にまで落ち込んでいる。いわゆるネットを介した音楽配信が伸びているが,デジタルコピーなどが広まっている分,落ち込んだマイナスを補うほどじゃない。もう1つは,デジタル技術の発達により,レコーディングが容易になって,プロ並みの制作環境が誰にも開かれたこと。CDパッケージビジネスを独り占めしてきたレコード会社が相対化されてしまったというわけである。

いま音楽を楽しむ人たちは,CDを購入し,これを音響装置にかけて聴くというスタイルはもうとらない。ネットから入手する曲を音楽プレーヤーに取り込んで,これを楽しむのである。一定の音質が保証されるのであれば,誰が制作したものであろうと,誰が提供したものであろうと一向に構わない。

この特集で,注目すべきことが2つあった。1つは,いまの音楽ユーザーは,楽曲をできるだけ簡便に,できるだけ安く入手するのを――できればタダで入手するのを――求めつつも,他方では,高額であってもライブにはきわめて高い関心をもっているということ。これを音楽プロデューサーの八木良太は「録音された音楽コンテンツはネットから安く入手し,その代わりに『いま』『ここ』にしかない一度限りの体験や興奮,一体感といった感動体験をライブに求めているのではないか」(前掲,エコノミスト,37頁)と説く。注目すべきもう1つのこと。例えばユニバーサル・ミュージックが計画中の試みがそれである。パソコン,ケイタイ,携帯音楽プレーヤーなどデジタル端末製品の小売価格に予め音楽税を上乗せし,購入者は「それらの商品が壊れるまでネットから無料で音楽を聴ける」(小林雅一,同上34頁)ようにするというアイデア。音楽がタダになるという意味では,現在の民間放送によるテレビやラジオと同様の仕組みを構想するのもある。ユーザーが,楽曲を手に入れようとするサイトに広告を貼るビジネスモデルである。

もちろん,「音楽税」にしろ「広告を収入源とするフリーミュージック」にしろ,音楽を文化として愉しむ豊かさとはまるで異次元のことでしかない。特集のなかの「インタビュー」で,坂本龍一は「無料で聴いてもらってよい音楽もあれば,・・きちんと対価を払って聴いてほしい・・作品もある」と言っている。まっとうな表現にたいしてまっとうな評価をどう与えるのか,という問題を提起しているわけである。デジタル社会が問いかける問題は,音楽業界の行く末などという問題をはるかに超えて,例えば人間社会における〈時代を超えて訴える作品〉をいかに扱うかということにまで及ぶのである。

読書術―アホでもいい,ないよりいい?2008年07月28日 22:11

英文学の富山太佳夫が,「読書術?そんなものが本当に,どこかにあるのだろうか。」と不思議がっている(日経,07/27朝刊)。まったくその通りだと思う。富山は,読書術に関連すると思われる「何冊かをチェックしてみたのだが,その見事なまでのアホらしさに感動しただけ」という。このアホらしさとは,これが読書術だ,とする内容が,それを示す者だけに意味のあるまったく私的なHow-toにすぎないことに由来する。〈秘策〉は,万人に開かれないからこそ〈秘〉として意味をもつ。〈秘〉は,傍から見れば滑稽でもあり,アホらしい,ものでもある。いわゆる〈合格体験記〉が,多くの人を惹き付けながら,他者にはつゆほどのご利益ももたらさないのはその例である。

ところで富山の面白いところは,読書案内の類を読むのが大嫌い,案内なんかいらないよ,というのが,学生時代の講義を聞くときの基本的スタンスだったと吐露している点である。「私にとって大切だったのは,その講義の内容ではなく,その先生が挙げる何冊かの本のタイトルであった。そのメモがあれば充分。」そのメモを入り口に,図書館や書店の棚を訪ねれば「私の前にはいつも広大な世界が広がっていた。」教師の講義より,その教師が教えてくれた入り口から手探りで進む知の世界が好き,という,いまの大学生のスタンスとは〈真逆 (^^ゞ 〉(=2004年新語・流行語大賞ノミネート語)の時代があったことを思い出させてくれる。

いまの大学生は,教師の話だけで圧倒的な満腹感をしめす。だから図書館にも,書店にも,ほとんどの大学生は寄り付くことはない。のみならず,小説はおろかマンガをつまむ別腹という感覚さえ喪失してしまっている。アホでもいい,そっこー読書術というのはないだろうかと,つい・・。