「新聞没落」という特集2007年09月25日 22:58

先週の『週刊ダイヤモンド』。「新聞没落」という特集が載った。今では「古くて新しいテーマ」の1つとなった新聞衰退問題。全国紙・ブロック紙・地方紙を問わず直面しているきわめて深刻な問題である。新聞社の経営基盤は、概ね3つの柱からなる。購読料と広告収入とその他(不動産収入・イベント収入・出版事業etc.)。購読料を1とすれば、広告収入0.7、その他0.4というのが相場のようだ。

新聞没落問題というのは、とりあえずこれら収入源がぐらついているという形で現象している。購読者(定期+スポットとも)が減少し、広告を載せるスポンサーも減っている。その背景となっているのが“メディアの交代”。もちろんネットが主役へと勢いづいているのが現実だ。ただし、ダイヤモンド誌によれば、女性はTVというメディアに依然ひきつけられているという。考えなければならない問題はネットのメディア特性であろう。

きょう、福田が総理の椅子に座った。昨日は安倍の謝罪会見があった。国民に対しての詫び、というよりも、基本は政府・与党に向けたエクスキューズ。会見は、用意してきた原稿を読みあげる格好のもの。その限りでは、貧しいながら文章になっていたというべきか・・。安倍は「美しい国」「戦後レジームからの脱却」なるコピーをもって登場した。とはいえ、それはつまるところ抽象的イメージにすぎず、観念の域を出るものではなかった。だからリアリティはなかった。小泉の「郵政民営化。イエスかノーか」「民間にできることは民間に」「地方にできることは地方に」などのフレーズが国民のきもちをどれだけキャッチしたのかを思うと、その対照に驚かされる。

つまり、問題は、フレーズが、しかもワンフレーズが跋扈する現状。ネットなるメディアが前景化するのも、たとえば小泉がとったワンフレーズ・ポリティックスが流行る状況のなかでということになる。コミュニケーションの有力なツールである電子メール。そこでは、絵文字、顔文字を含む、かぎりなく定型的なフレーズがとびかう。コンテクスト離れ。文字離れ。ストーリィ離れが浮き立つ空間なのである。現代の人々が惹き起こしている新聞没落(=新聞離れ)が問いかけるのはまさにこのことではないか。リアルの新聞を読まない人たちは、ニュースだったらそれこそ新聞社のサイトにアクセスすれば読めるではないかという。しかし、もちろん、ウェブ・サイトの記事はリアル紙のそれとは大いに違う。文章の量は何分の1になるのだろうか。それこそキャッチ・コピーに限りなく近い文の量ともいえるのではないか。文章から縁遠くなった現代人。例えば久々に英語の世界に放り込まれたとしてみよう。そこで直面するのは、単語、ワンフレーズしか出てこないオソロシか世界ではないか。新聞没落の世界の状況はまるでそれとおんなじ・・。

出版業界、売上げ減少のなかで2007年06月24日 13:47

すでに旧聞に属するというべきなのだろうが、ちょっと思い出したのでふれておこうと思う。小学館が、はじめて年間総売上高で講談社を抜いたという話のこと。一ツ橋グループが、音羽グループを追い抜いたという風には必ずしもならないようだが、目をとめるべき動きだと思う。何しろ上回った要因が、書籍や雑誌の売上ではなく、広告収入と映画の配当や著作権料などを含む「その他」だったというからだ。出版業界における売上が減少に転じて10年。反転する気配は一向にない。多様なメディアの時代とはいえ、活字文化は衰退の一途を辿る。文字情報から想像の世界がひろがる醍醐味の消失といえばいいか。画像や映像などはそれ自体が圧倒的な情報量を持つ分、読み手や視聴者の想像力の発揮できる余地はほとんどない。

小学館の売上を後押しした「その他」の広告収入の問題も侮れないというべきであろう。いわゆるフリーペーパーが発行部数を伸ばしているときく。広告ですべての費用を調達する雑誌がフリーペーパー。読み手にとっては、タダで情報が手に入るスタイルの人気が高まっているというわけである。売上げを後押しした「その他」の広告収入というのもその延長上にあると見られる。この場合タダではないが、広告の掲載がなければ雑誌の価格ははるかに高くなるからである。つまるところメディアを決めるのは、あるいは情報の内容を支配するのはスポンサーにほかならないということに限りなく近づいたといっていい。

小学館の売上げに関しては、女性ファッション誌(CanCam)の高い広告収入に加えて、「ドラえもん」その他の映画キャラクターの著作権関係の寄与が侮れないようだ。したがって「ドラえもんが、小学館が赤字でも守り続けている学年誌から生まれ、育った」(出版ニュース社・清田義昭氏)というのが、あるいは美談風の話として仕立てられることにもなりかねないが、実は「赤字でも守り続けている学年誌」というのが、すでに小学館の過去のポリシーに過ぎないということに想像力を働かさねばならないのではあるまいか。「みててごらん、子どもが減少する現実を前に学年誌があっという間に消えるから・・」(学年誌そのものがはらむ問題についてはいずれ別稿で)。

第4の権力2007年06月18日 22:29

一昨年だったと思うが、マスコミへの就職を希望している学生がゼミに入ってきた。 なぜ、マスコミなのか?というようなことなどを聞きながら、マスコミ、ジャーナリズム は「第4の権力」というが、それについてはどう考えてる?と尋ねてみた。その学生の 反応はなかった。て、いうか、そもそも「ダイヨンノケンリョク!?」の意味がわかって いなかった。「第4、というのだから、もちろん第1から第3まであって・・」という ことを話した。しかしそもそも三権分立の理解ができていないのであった。

早稲田大学が、ジャーナリズム教育研究所を開設した(河北。朝刊)。プロのジャーナリストを養成する のがそのネライという。これまでは大学のジャーナリズム関連の授業は、いわゆる一般教養 的な傾向をもち、プロフェッショナルを育てるという性格のものではなかったという のと、採用する側の新聞社や放送局が、ジャーナリズムとは何か、を勉強した学生はむしろ 敬遠する傾向にあったということが、その背景にあるらしい。何のことはない。ジャーナリズム 自体が、公権力のチェック機関として立つ、という意気込みを失ってきたということではないか。大手広告代理店 の絶大な力、というような問題を含めて、無料で視聴可能なメディアが、第4の権力として機能 すると考えることはできるのか、をあらためて問う必要が出てきた。まあ、そう考えることは難しいかなぁ・・。 早大の教育研究所には、せめてマニュアル・マスコミ人だけは育てないでね、と言っておきたい。

ワーキング・プアはデジタル・プアと見つけたり2007年05月22日 08:46

今週の『アエラ』 に「デジタルプアの見えない壁」という特集記事が載っている。 サブタイトルは「携帯オンリーが陥る下流スパイラル」。タイトルとサブタイトル からおおよその見当はつく。携帯さえ持っていればメールもネットもでき ちゃうから、パソコンは要らない、という「携帯オンリー族」がさしあたりデジタ ルプアということになる。しかし、記事を読むと問題の根はかなり深そうである。 デジタル・デバイドという用語がある。ワーキング・プアというのも深刻な問題だ。 最近では「ネットカフェ難民」というのも出現した。デジタル・プアというのは、こ れらすべてをひっくるめた概念とい見た。

働いても働いても満足 に生活ができないワーキングプア。彼らは寝所もままならない。だから雨露をしのぐ ためにネットカフェに引き籠る。しかし実はそこでパソコンを使ったネット世界に習 熟するわけではない。ひたすら仕事が入るのをケイタイ片手にじっと待つ。ケイタイ だけは手放せない。ケイタイは文字通り命綱となっている。

パソコンのアプリ ケーション・ソフトが使いこなせると時給が高い。しかしデジタル・プアは、習得 する時間もなければ費用の捻出もままならない。特集記事はこうも言う。「コンピ ュータスキルは、中学3年の時点で『家庭の生計維持者がホワイトカラー』だと高まる」と。 この「15の春」がその後を決定付ける構造ができているということだ。パソコンの ネット利用者は、「今年、20代の家庭のパソコンからのアクセスが初めて前年を下回った」。 つまり、ケイタイ依存の20代がそれだけ多くなっている。『アエラ』は「デジタル・プア」 のすぐ後に「2.0時代の携帯ビジネス」を企画した。先日ドコモがいくつかの全国紙 に全面広告、「さてそろそろ反撃してもいいですか?」を解説するような記事。そこで は、ケイタイがますますパソコンに近づいている現実を取り上げている。ケイタイさへ あれば、という幻想と詐術の喧伝と読めてしまう企画・・。

そういえば、ケイタイ を使うほど日本語がダメになるという分析 もあったっけ・・。