もう年賀状?2006年12月16日 23:43

昨日、年賀状の受付が始まったと新聞に出ている。いつも年が押し迫って からでないと賀状のリアリティが感じられない身にとってみれば、もう投函 した人がいるというのはまったく想像を超える。ところで今朝の読売の「気流」。 昨今は「両面とも手書きの文字は一切なく、パソコンで作った年賀状は画一 的で、どこか味気ない」と嘆く投稿が載っていた。投稿主は「パソコンの 利点を十分生かしつつ、一枚一枚、手書きも加え、心伝わる年賀状を書き上 げたい」と締めくくっている。

パソコンで仕上げる賀状の没個性と いう問題。パソコンが普及する以前にもすでに印刷された賀状という形で指摘さ れてきた。パソコンが使えるようになって、何が変わったのか。印刷を外注する のと自前でやるのとで、何がいちばん問題なのか。おそらく自前印刷は個の表現 と直結するとみる心理が働くことに発する問題なのではあるまいか。つまり、 個の表現としての賀状が可能か、という問題である。と、すれば、さしあたり、 表現の形の問題ということになろう。「投稿」主は「手書きの文字は一切ない」 ことに注目しているが、手書きの文字がない=画一的、とみなしてしまう心理 とは何かといってもよい。イラストや絵であれば、従来の版画(いも、ゴム、 木etc.)の表現に還元できる。パソコンではむしろいく通りかのバージョンを 用意するのも簡単だ。写真も同様。これに対して、文章の場合はどうか。差し出 す相手をいくつかのクラスターに分け、それぞれに違う文章を用意する、という ことも考えられるが、文章の場合のピンポイント対応範囲はかなり狭いという 問題が生じてくる。「手書きか否か」の点は、すでに使われている「手書きフォント」 ソフトを“使いもの”になるまで育てることはさほど困難ではないだろうから、 早晩解決すると考えられる(これも結構難しいか・・)。だから最大の難問は 「出す相手ごとに文章を変える」ことをパソコンになじませることということになる。 これが果たして簡単だろうか?もちろん物理的には「可能である」。しかし、 手書きのてまひまに替えてパソコンに乗り換える効率とは両立不能というべきだ。 つまり、こうして当たり前の結論に達することになる。つまらんね・・。