まつりのあと―知事選終わる2009年10月28日 22:04

知事選が終わった。
3日経った。
現職が強かった。
候補者だった先輩は,供託金の没収は免れた。
が,当選者に,例えば公職選挙法に違反した事実が発生し,
失職したとしても,繰り上げ当選にはならない。
それほどの壊滅的な票差。
敗因について,いろいろ分析はできる。
しかし,ここではふれないでおこう。
候補者本人も,
いいたいことが山ほどあるようだ。
しかし,敗軍の将は・・語ら(れ)ない。

たまたま今回の知事選のことを話していた,
旧知の,ある出版社の社長からメールが届いた。
東京では,選挙戦の様子は何もわからなかったようだ。
報道で結果を知って送ってくれたのである。
そのなかの一節。
「小泉改革ではもろ手を上げて賛美して自公連立政権が磐石かと思っていたら,
数年にして逆転してしまいました。
吉本のいう『大衆の原像』は,
支配的イデオロギーに包摂された民衆に裏切られても,
そこに潜む生活実感は,信頼に値するのだ,
連帯を求めて孤立を恐れず,
という思想を信頼するしかないのだ,
という内実はなかなかつかみきれない・・」。

信頼に足る民衆の生活実感。
これに届く言葉をひねりだせなかった。
現職の,
つねに満面にたたえた笑みは,
それができたのかもしれない。

選挙戦がいよいよ終盤にさしかかった時,
読売新聞が,
「民主みこしから刷新を叫ぶ」
なる記事を載せた。
アイロニーを感じさせつつも,
トーンとしてはけっこう好意的な内容だった。

“みこしの上で改革を叫ぶ”。
これは何かに使える。
片山恭一のセカチュー
をもじった“ミコジョー”である。

それはともかく,
敗戦の弁で「私の不徳の致すところ・・」
と言ったのをとらえ,
ある新聞社の若い記者は
「どんな点の不徳か?」と詰め寄ったらしい。
いまどきの記者なのである。
定型の妙,ことばのあやにあまりにも疎すぎ・・。

楽天球団,優勝戦線へ2009年10月03日 22:43

楽天イーグルスの,
クライマックス・シリーズ進出が決まった。
一昨日,ソフトバンクとの直接対決を制し,
何ヶ月ぶりかで2位に浮上した。
その勢いを駆って今夜は西武に圧勝。
球団創設5年にして初めて
優勝戦線にかかわることとなった。

いわゆるIT企業「楽天」に対しては,
さほどいいイメージはない。
効率と経済的合理性とを,
耽々とドライに追求する企業
という感じがどうしても
つきまとうからである。
社長&会長の三木谷が,
ハーバードで身につけたという,
アメリカ流合理的経営学をベースに,
ネットの特性を
誰よりも知り尽くす形で,
楽天市場が運営されている,
と思われるからである。

が,まことに不思議なもので,
日に日に楽天イーグルスは,
地元球団という心性が強まってくるのがわかる。
勝てば気分がよいし,
負ければ新聞のスポーツ面は,
ショートカットしてしまうようになった。
いわば郷土や血縁,地縁を紐帯とするまとまりに,
からめとられてしまっている(笑)。

だから,
いわゆる“レーニン最後の闘争”を想起せよ,
ということになる。(^^ゞ
レーニンは,
「抑圧民族の民族主義と被抑圧民族の民族主義」とを
同様のものと扱ってはならないと主張した。
「おれの民族主義とおめえの民族主義は同じじゃねーか,
何いってんだ,ばぁーろ」
と抑圧民族に属するものが,
つい口にしちゃう状況を喝破したのである。
郷土愛(のようなもの)に傾く
あやうさを透視したのである。

ま,たかが野球なのだ・・,というのがあぶないのである。(笑)

麻生の「文化水準」とネット社会2009年07月15日 20:41

麻生ネタの川柳
先週,蔵王に行った。
東京からやってきた若き友人たちとの,
温泉を楽しむだけのいささか贅沢な時間だった。
夕食前のひととき,温泉の神の社という
「酢川神社」に足を伸ばした。
そこに「川柳坂」という階段があり,
訪れた人たちの投稿した「川柳」が,
石灯籠に書き込まれていた。
読みながら行くと,
結構きつい階段だということを
意識せずに上れたという点で,
一つのアイデアだと思わされた。

“iPodすぐに沸くかと祖母が訊く”とか,
“ガス抜きに誘ったつもりが引火させ”とか。
作品は,オリジナリティを感じさせるものから,
既にどこかで見たような,
というものまで幅がひろい。
どこかで見たような,の1つが上の画像。

ところで,その首相の,
「マンガ問題」と並ぶ「漢字問題」。
偶然,こんなのがあるのを知った
どうもマスメディアは流さなかったようだが,
底抜けのひどさは想像以上である。

この動画像を1つ見ただけで,
あるわ,あるわ,
あそう,をおちょくったのが,
次々とでてくる。
ネット時代にいることを気づかされる瞬間である。

そういえば,Googleが,今朝の全国紙に載せた,
〈未来のためのQ&A〉という
全面広告。
今回はともかく,
(総)選挙が,大きく変わるかもしれないと
思わせる新しい試みと読める。
もちろん,こうした新しい仕組みに対しては,
いろいろあぶないこと,
憂うべきことが生じるだろう
と想像力をもつことが必要である。

全国知事会が,
政党マニュフェストに
点数をつけるという発想と通底するような,
きわどいsomethingだろうからである。

まったく同じネタの新聞各紙コラム2009年06月27日 12:50

購読紙が,毎朝3紙届く。
今朝は,3紙のコラムの題材がまったく同じだった。
こんなことは珍しい。
が,購読3紙の場合,
1年に一度というほどにマレだというわけでもない。
しかし,ちょっと気になって,
ネット(新聞コラム社説リンク)でチェックしてみた。
驚いた。
全国紙(朝,読,毎,日経,産経)だけでなく,
河北,東京,信濃毎日などの地方紙も
軒並み同じネタを取り上げている。

そう,同じネタというのはマイケル・ジャクソンの急逝である。
朝日(天声人語)の出だしはこうだ。
「その世界に縁遠い人でも顔と名前は知っている」。
なるほど,わたしもその典型だ。
まったく関心がなかったし,
その音楽を意識的・自覚的に聴いたことは一度もない。
が,顔と名前は知っていた。

されば,各紙のコラム氏をして
ひとしくM.ジャクソンに
関心を向けさせたのは何だろうか。

各コラムを読んで浮かび上がってきたのは,なによりも
「ポップ音楽」の稀代のエンターテイナーであったというよりも,
その生き方がドラマ的だったということである。
いいかえれば各コラムを読んで,
それじゃこの機会に彼の歌を聴いてみようかとは,
ならなかった。
食指が動かなかった。
わずかにムーンウォークという
ダンスパフォーマンスは見てもいいかな,
と思ったにとどまる。

では,ドラマ的,というのは何か。
東京新聞(筆洗)は,
〈ダモクレスの剣〉の故事をつかいながら取り上げている。
絶頂と危機,山と谷,光と影は一体だと教える,
あの故事である。
M.ジャクソンの場合,
80年代にピークを迎え,
一世を風靡したあと,
暗転したということのようである。

ゴシップ,醜聞,奇行,孤独などなど
負のイメージの横溢する時期が続いた。
そして「永遠に年を取らない少年」
ピーターパンをめざしたM.ジャクソンは,
いま一度の栄光をと再反転をかけた
ロンドンツアーを目前に彼岸へととびたった。

表現者というよりもテクストとしての存在,
これが一斉に
コラム氏の筆を動かした要因だったというわけである。