ホリエモンが否認を続ける“わけ”2006年02月08日 11:07

このブログの1月26日付の記事で「ホリエモンが『法に違反した』ことを認めるのも時間の問題」と書いた。しかし現在にいたるまでなお逮捕容疑について否認を続け、のみならずいわゆる「弁解録取書」への署名も拒んだままで供述調書すらまだ1通もできていないらしい。これをどう読むか。1/26の記事を書いた際には、現行の日本における市場経済をめぐる制度、運用に対する不満(裏を返せば制度の不備という種々の隙間をねらってなぜ悪いという主張)に過ぎないだろうから、早晩「容疑」についてこれを認めるだろうと推測した。これがはずれた。なぜか?言葉の厳密な意味で「ナイーヴ」な理解になるのを承知で言えば、ホリエモンは市場経済の原理にしか興味がなく、あるいは知識がなく、社会を編成しているその他の原理(例えば権力的編成原理)についてそれこそナイーヴ過ぎる認識をしているから、ということになる。簡単に言えば、いわゆる「国策捜査」に無知だということだ(もちろん今回の捜査が国策による、というのが前提になればだが、何れ東京地検の特捜が100人体制でのぞんでいる異常を読み解く必要はあろう)。あるいは権力のこわさを知らないといえばいいか。否認を貫こうとするものに発動する国家「暴力」というものへの想像力の欠如にほかならない。このあたりについて最近の書物では佐藤優著『国家の罠―外務省のラスプーチンと呼ばれて』(新潮社)が非常にうまく書いている。しかし、こうした解釈はやはり能天気なのだというべきかもしれない。ホリエモンは、実は「深い闇」「ブラック・ワールド」も引き受けたなかでビジネスにも金融取引にも関わってきたのであって、その意味ではどうしても「Non!」の態度・対応を続けざるをえないのかもしれない。この点について、ビデオニュース・ドットコムで無料公開している立花隆の外人記者クラブでの講演は必見に価する。