“伊達の初売り”の変容2008年01月06日 20:46

初売りも今日あたりまでだろうか。仙台の初売行事は全国的にも知られている。大盤振る舞いと福袋と。とはいっても実は伊達者のやることだから、一種お祭りとしての色あいが濃厚な伝統行事として続いてきた。売る側は、大盤振る舞いを演出し、買う側は早朝から繰り出してその気合を楽しむ。祭りの最前線に参加できる人数にはさしあたり限りがあるからである。だから、早朝まだ夜が明けぬ時間帯に起きて行動を開始することに抵抗はないものの、行列にアレルギーを感じる身であれば、この伝統行事の最前線に関わるということはほとんどないまま今日に至った。初売りの日に街に出るとしても、お昼過ぎに散歩がてらというのが定着してきたのである。

そうしたスタイルで見た今年の街は、これまでとはいささか違った雰囲気を感じさせた。一言でいえば“福袋の偏在”。もちろん店員がいくら呼び込みの声を張り上げようとも、一向に客が寄り付かない店は従来もあった。私は「ハズレ」を知った上で、こうした店の福袋を行列という苦行なしに買い求めたことがあった。偶には「当たり」のこともないわけではないからである。行列の出来ない店の福袋には、前年の商売の結果が詰まっており、どうしても売れなかった品物がこれで消えてくれるという売り手の切羽詰った思いが込められている。だから、予め中身が何かを問うのはルール違反になるし、固く結ばれた袋の口が販売前にいささかでも隙を見せることは決してなかった。そのかわり、たくさんある福袋のいくつかには「まともな」品も忍ばせておくという罪滅ぼしがなされてきた。伊達者のお祭りたる所以であった。

ところが、今年は、正午をまわっても開店時の形状のままではないかと思われる“福袋の山”を抱えた店がいつにも増して目立ったように感じられた。こうした現象と恐らくは関係するのであろう。日経新聞の東北経済面に「今年は店員に中身を確認する客が目立った」とあった(5日付)。売り手と買い手の暗黙の了解のもと、お祭りが成立するという空気は消え失せようとしている。伊達者が文字通り伊達な存在としてあることが最早許されなくなったのである。今年から初売りとバーゲンセールがかぶるようになったのも根っこは同じと見た。