制度としての教育機関とは2006年02月05日 10:02

朝NHKラジオの「日曜訪問」を聴いた。きょうは「日本型胡弓」演奏家の石田音人氏だった。これも面白かったが3週間前の仙道作三氏(→HP)の時はいろいろ刺激を受けた。考えさせられた。さしあたりこのHPを見ればどんな仕事をしている方かわかるが、簡単に言えば1945年に秋田に生まれ、中学卒業後集団就職で東京に出て、工員として働きつつギタリストを目指した後、作曲に目覚めて柴田南雄(作曲家・芸大教員)の押しかけ門下生となって作曲をマスターし、その後意欲的に曲を発表している人ということになる。清瀬保二に師事したことがあったとはいえ、ほとんど独学で作曲を身に着け、数々の「すごい」曲を残した武満徹を連想させるが、ここで強調したいのは仙道にしても武満にしても制度としての教育とは何か、を鋭く問い返しているように思われることだ。美しい日本語文はいうまでもなく文法的に正しい日本語すら書けない学生ばかり、という現状。誤字だらけ、脱字にも気がつかない大学生。本らしい本をほとんど読まない、教科書さえ買わず、持たずといういまの学生との落差は気が遠くなるほどだ。いわゆる高等教育の著しい大衆化の結果であるのはいうまでもないが、ことの本質は芸術のフィールドか否か、というようなところにないことも確かだ。

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://g-village.asablo.jp/blog/2006/02/05/240699/tb

※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。