保守派論客の「『激論』番組」評2006年07月02日 17:26

読売の朝刊。日曜の第1面に掲載される「地球を読む」。きょうのキャプションは「空虚な『激論』番組」。「戦後平等主義の悪弊」という視点から保守派の論客・岡崎久彦(外交評論家)が書いている。時事ネタを取り上げるテレビの『激論』番組が、専門家もシロートも区別せずにただひたすら「出演者が視聴者の前でプロレスのような立ち回りのショーを演じてくれるだけを望んで」いわば乱造されていることを斬った論評。

専門家も、どシロートも同一視され、発言時間も同じ長さにコントロールされる『激論』番組。番組制作側に「識者から学ぼうとする姿勢が皆無」というのがその前提になっているが、それは「テレビ局の担当者が学校教育」と、せいぜい「新聞で覚えた限られた知識の中で、番組のシナリオを作ろうとしている」ところに由来している。「担当者は徹夜するような努力はしているようであるが、恐るべきカラ廻り」というほかない。彼らのみずから発する唯一の“ことば”は「視聴率の高いシナリオを作ること」。

こんな状況になった「背後には、おそらく戦後日本の悪平等思想があるのであろう。私は戦後の平等思想の背後には、左翼の影響だけでなく戦時中の軍の思想の残滓があると思っている」と指摘する。「軍の思想の残滓」というのは「組織でやるんだよ。お前だけが特別な人間と思うなよ」という「軍隊経験のある人たちの口癖」から裏づけがとれるとする。

「軍の思想の残滓」というのは確かにリアリティ があるし、左翼の影響についてふれているところは、意外なほど感覚的・情緒的・ジョーシキ的な感じがするものの、「学校教育と、せいぜい新聞で覚えた限られた知識の中で」仕事をこなすやるせなさについては確かに同じ感覚を覚える。最近の学生は、本を買わない。読まない。しかし何かの偶然で、専門書を1冊読み通したとすればそれだけで「もう気分はりっぱな専門家」だ。下手すると教師相手に「タメ語」がでてくる。これが現実・・。こうした現象を、社会を編成する枠組みの問題も含めて剔抉する必要がありそうだ。