技術決定論者、トフラーの新刊2006年07月05日 08:44

アルビン・トフラーの近著"Revolutionary Wealth"の邦訳『富の未来』が出た。まだ読んでいない。今朝の読売に、邦訳刊行にあわせて来日したトフラーへのインタビュー記事が載っている。これを読む限り『第三の波』、『パワーシフト』などの前著と何が違うのかまったく伝わってこない。「技術の発展が『知識』が価値を持つ新しい文明を広める」、「画一的大量生産から個々の多様性への対応 へ」、「個の創造性」などなど、この限りでは、目新しいものは何もない。これは"Revolutionary Wealth"そのものに新たな何かがないのか、インタビューした記者に新しい何かを掴み取る知識と感受性がないのか、どちらかだろう。あるいは「何れも」か。インタビューした記者が実は"Revolutionary Wealth"を読まずにトフラーに会ったのが真相ではないか・・。これからの『富』とはどのように把握されるのかにさえふれていないのだから。

日々、さがしもの、が多くなる2006年07月08日 11:50

年々、さがしものに費やす時間が馬鹿にならなくなっている。今朝も。送られてくる紙類(書類というより紙類)のほとんどはいまだにリアルペーパーで届く。一方、デジタル・データでの送付も増えている。その多くは電子メール(含添付ファイル形式)。しかも最近は、比較的大事な連絡がこの形式になった。だから基本のところはデジタルだと、イメージができた。しかし、実は このリアルとデジタルの混在が「さがしもの」激増の直接的要因と考えられる(思いたい=「年齢のせい」とあっさり片付けられそうな気配は否定すべくもない・・)。

とにかく、デジタル・データであれば、基本的に一発で検索可能だ。内容うろ覚え状態でもだ。リアルペーパーでは、そうはいかない。日々夥しい数の紙類が届くが、その8割以上は無用の紙クズ。残りの2割を丁寧に分類しつつ保管すれば何の問題も発生しないのだろうが、これがなかなか難しい。分類の時間が惜しい。区分けして丹念に仕舞い込むほど重要だと思われるのははなはだ少ない。しかし、いざとなればすぐに必要なものも少なくない。近日中に入用と思われるものはすぐ目の前の棚などに入れる。しかし別の紙類がこれに間髪容れずに続く。こうして、今朝も「さがしものタイム」が始まった次第。返答期日が既に過ぎていたにのに気づいて。なんとかならないものだろうか・・(*^.^*)。

「梅原龍三郎 ルノワール伝説の真実」2006年07月09日 23:34

きょうの『新日曜美術館』(NHK教育)は、「梅原龍三郎 ルノワール伝説の真実」。梅原といえばルノワール、というのが決まり文句となってきた。 梅原本人が、それを種々の文章に書いてきたからだ。20歳で初めて渡仏。フランス到着の翌日訪れた美術館でのルノワール作品との衝撃的出会い。そしてルノワールの弟子となり、云々、と。

それが、実は梅原の脚色によるものだったというのが、この番組。梅原の曾孫がこれまで知られていなかった梅原の滞仏日記から割り出した。端的に言えば、20歳でフランスに留学したということは、例えば東京美術学校を出たというようなキャリアをもたずに彼の地にとぶことだった。このまさに何もなく、頼りになるのはおのれの才だけという状況が、ルノワールを師とした日本人画家、というイメージを必要とした、というのがさわり。事実に基づきつつも脚色された物語へというわけだ。当時のフランスの様子を知りたいと願う“白樺派”の面々との交流もこの観点から読み解けるだろう、と。“白樺派”の〈宣伝〉もあって、画家梅原の名が知られるようになり、梅原本人は日本に戻るときに、これからは演劇人として立つ、とひそかに決意していたものの、すでに画家梅原で通っていたから、やむなく?絵の道にとどまった、というくだりも面白い。初めて知った。「色彩の画家」「色彩の魔術師」ルノワールが、梅原について「君は色をもっている」と見抜いたエピソードも色を添える・・。

表象文化論学会ができた、その意味は・・?2006年07月11日 13:51

表象文化論学会発足の紹介記事があった。朝日新聞、朝刊、12版(文化総合面)。1987年に東大教養学部の「超域文化科学科」のなかに「表象文化論分科」ができた際、表象文化論が注目を集めた。あれから20年弱。会長に就任した松浦寿輝は「現代では、芸術も文化も暇人の遊びではなく、現実そのものに食い込んでいる」と言う。これは、1990年代以降、学問に対して現実への実効性を求める風潮がリアルと思われるようになったことを相対化しつつ「現実とは金もうけだけではない。美に対する感動も遊戯や祝祭の興奮も、人生や記憶をめぐる感慨もみな現実」とすることを前提とした発言のようだ。

しかし、これでは「現実とは金もうけ」という現在の主流をなす価値観・生活観と正面から対峙する姿勢にはなっていないと見るほかない。つまり、文学、映画、音楽、サブカルチャー、演劇、アートなどを横断的に研究するという表象文化論の試みそのものは、むしろ「暇人の遊び」として徹底できるか、どうかが成否のカギになると思われるからだ。現実から「暇」や「暇人」をデリートして浮かび上がってくるのは、金・貨幣が背後にへばりついた「感動」のようなものでしかないのではないか。