飾りの出所は同一?(仙台七夕)2007年08月08日 08:53

仙台は一昨日からきょうまで「七夕祭り」。3日間で200万人が見物する。他の地方都市と同様、仙台の中心部は地元の商店が中央資本の前に次々と撤退を余儀なくされいまではどこの街なのかが判然としないようになったしまった。仙台に進出した店の多くは、七夕の飾り付けを嫌がるケースが多いと聞く。コストがバカにならないからである。激しい競争のなかでわずか3日間のために手間隙かけることを“無意味”ととらえているのである。しかし、点在、散在するだけの飾り付けであれば、七夕にはならず、みずからのビジネスチャンスも逃してしまう。その結果、飾り付けにかかわる一切を受け持つ「七夕ビジネス」が登場した。いささか極端にいえば、どの店の飾り付けも出所は同じとなったのである。しかも、不思議なことに飾り付けは賞の対象となっている。優秀賞、一等賞等々。この差は何の違い?当然・・の差か・・。

規格化・標準化の問題という意味でも興味を呼ぶ。

クルマが売れない、らしい2007年07月03日 09:18

クルマが売れなくなったらしい。売れ行きは22年ぶりの低水準であり、このところ“好調”だった「軽」もこの4月以降は同じようだ

この背景にあるのはどのようなことだろうか。 家計調査報告によれば、2007年を100とする消費支出はこの2年ほぼ100を超えることはない。収入が多少増えても、消費支出そのものが抑制されているのである。クルマへの支出もそうした全体の動きの一部ではあろう。しかし、そうだとしてもそもそも消費にむかう勢いが弱くなっているのは何故かと、問題はさらに根源へとたどることになる。

クルマについていえば、1970年代に「ケン&メリーのスカイライン」(スカGT)が一世を風靡したことが思い出される。それは、クルマとともにあるというライフスタイルが憧憬の的だったことと同義だった頃のことであるが、1980年代にはいわゆるポストモダンの議論とともにクルマは「記号消費」の対象へと転じた。空間を移動するとかモノを運ぶというクルマの「使用価値」が問題なのではなく、どのクルマとともにあるのか、がとくに若者にとって最大の「使用価値」となった。しかし、バブルを経ていわゆるLost-Decadeに沈む間にポストモダンを楽しむ余裕は失われてきたと見られる。商品はそれぞれ“本来の”使用価値が再び前景化したかにみえるのである。そうしたなかで、モノとしてのクルマへの欲望が希薄になっているとすれば、人々がイメージするライフスタイルがその象限をいまいちど大きく変えつつあるということなのかもしれない。

とにかく東京では、クルマなんて日常的にどこに保管=駐車するのか、という問題1つとっても邪魔なだけのものとなっているし、空間移動には知地下鉄と電車があるし、万一クルマ必要だとしてもレンタルカーで十分に間に合ってしまう。何人か/何軒かで1台のクルマをもつ、といういわゆる「カーシェアリング」という選択肢もリアリティを持ち始めた。 「記号の氾濫」が「情報(化)社会」の生成と指摘したのはマーク・ポスターだっただろうか。消費支出に現れている最近の傾向は、人々が原点回帰(=本来の使用価値?)を始めつつあることを象徴するのかもしれない。もっともそれは一種の生活防衛としてだろうが・・。

アマゾンの新サービス2007年06月10日 21:38

消費者心理の問題ということになるのだろうか?アマゾンが、年会費3,900円で、商品の配送料が一切タダとなる新しいビジネス・モデルを開始した。これまでは1回購入金額が1,500円以上の場合には送料がかからなかったが、1,500円未満であれば送料の負担があった。だから1冊1,000円の本を例えば350円の送料を払って購入するということはほとんどなかったのではないかと推察される。ばかばかしいと判断して買うのをやめるか、とりあえずあまり読みたいわけではないが、あってもよい本を1冊追加して1,500円の条件をクリアする、という選択肢を選んできたのではないかと思う。それが年間3,900円の負担で、ハードルが一挙に下がった。のみならずこれまでは追加料が必要だった「お急ぎ便」も無料となる。おそらく予想以上のユーザーが、この新サービスに乗るのではないか。しかも一度払った3,900円を「回収しなければ?!」の心理から、従来よりも購入頻度も増えるのではないか。アマゾンの創業者にして現CEOのジェフ・ベゾスは「ネットインフラが充実し携帯電話での通信も充実した日本なら、確実に成功する」と言っているとのこと。「欲しい!」と思ったら即購入手続きに入り、その流れに掉さす、一見凡庸に見えながらも意外な威力を発揮する仕掛けのような気がする。

消費者心理という点では、今朝の日経に紹介されていた、値引きよりもポイント発生を好む消費者が多い、というのもちょっと面白い現象だ。

“一期一会”の含蓄2007年04月23日 19:16

紙媒体の雑誌をネットを通じて デジタルマガジン として販売する ビジネスが誕生したとある(今朝の日経 13面 企業2)。便利が また1つ増えたと思うと同時にこの便利を素直に受け入れがたい という気持ちが頭をもたげる。ビジネスの仕掛け人いわく「紙 媒体の雑誌は『生鮮品』という考え方が強く、発売後一定期間 が過ぎると記事データを活用せぬまま、努力して作ったコンテンツ を捨てて」いた。しかし「ネットでこそ出版社のプロが作った雑誌 をバックナンバーを含めて提供すべき」ではと。「ごもっとも」と思う。 「でも」とも思う。プロが作り上げたコンテンツが、月刊誌であれ ばわずか30日ほどで消えていくがゆえに、これを読む時の高揚と 緊張感があったのではないかと思う。つまり“一期一会”という単なる 四字文字熟語でしかない印象を与える文字列が俄然くっきりとその 意味を訴える瞬間があったのではないかと。だが、しかし、これからはオンデマンドで いつでも好きなときに即呼び出せることになった。気持ちの弛緩は 否定しがたいというべきだろう。尤も、最近ではこうした精神の 高ぶりを感じさせる雑誌がめっきり減ってしまったのも事実である。 ともあれ日本では1970年代にVideo Tape Recorderではじまった 情報ストックといういわば“一期一会”を無化する試みが限りなく あらゆるメディアに浸透する現実が急速にひろがる。とりあえず 30誌余りでスタートし、いずれは発行されている全雑誌(2500強) をカバーするとのこと。