またまた大学教育について2006年03月19日 21:42

今朝のNHKラジオ第1の「日曜訪問」は内田樹(神戸女学院大学教授)がゲストだ った。テーマは「大学で学ぶとはどういうことか」。普段、自分でも考え、思っていたことと重なるような話だったと思う。「だったと思う」というのは、まだ明確に起きる態勢をとる前のまどろみのなかで、聴きながしていたに過ぎないからだ。だから内田樹が話した事を正確に紹介する自信はないが、次のようなことを言っていた(たぶん)。最近の大学生はかつての(15年位前の)中学2年生か3年生と思えば大きくは外れない。大学生だったら、授業に出る、出ないの判断や、本を読む、読まないを選択するのは自分の意思の問題だというのはもはやいまの学生の現実を知らない判断というべきだ。授業には必ず出て、何かを身につけることが必要不可欠と諭すべし、と。大学では、入学時と卒業時では、「何か」が大きく変わったと思えるか、どうかが最大のポイントとなる。その際、大きく変わる「何か」というのは、「数値化可能(評点で表せる)」とか「資格に直結している」といったものとは全く違うということが大事、というのが内田が強調していたことだった(と思う)。例えば、入学時に、大学では「○○という資格(免許)」を取ろうと思ったとすると、それが卒業時に実現したとしても、入学時に自分で決めたゴールの範囲から出るものではない、という意味で、大学で学んだ意味はないに等しいととらえるべきだということだ。つまり、入学時に一人の学生が卒業時の自分をイメージしたとして、それはあくまでも入学時にその学生が持っていた経験、知識、判断基準に基づいたものに過ぎない。だから、大学でいろいろ身に着けて、卒業時に、入学の時にもっていた(イメージしていた)像から離れれば離れるほど学んだものは豊かだったということになるという結論が出てくる。「まったく同感!」だ。それで、ここからは純粋に自分の考えということになるが、「数値化可能」とか「資格直結」という、確かに最近の学生がこだわりをもっていることをどう解釈するかという問題が残る。で、これを「数値化可能」=「取引の対象」=「対価」という関係においてとらえることができるのではないかと愚考したのだが、どうだろうか。「学ぶ」ことは、授業料の対価が手に入ること、それが実現できればそれで満足、それでOKという図式になっているのがいまの現実ということだ。「対価」というのは、もちろん自分の経験知、知識でそう思う、というだけのことになる。要するに、自分の予めもっている経験知、知識をはるかに超えるものを身につけるという本来の「学知」(といっていいのか良く分からないが)なんかに興味はないのが今の学生だということだ。何のことはない、大学に入るまでの間に、「学ぶ」ことについてさえ「対価」「取引対象」という市場経済のターミノロジー、カテゴリーでとらえるスタイルが身に染みついてしまっているということだ。「学ぶ」ことや「教育」は、「対価」をはるかに超えて、「想定外の」思いがけない方向の知力が身につくような施しがなされることにこそ真骨頂があるというのに・・。