永田騒動、余波2006年03月26日 08:40

いま放映中のTBS「サンデーモーニング」でコメンテータの一人が永田について、「論理的に話しているが、本当の論理がない。だから聞き手に伝わって来るものがない」というようなことを言っていた。永田については、もちろん全く同様の印象をもつが、これは別に永田だけのことではないだろう。ここでいう「本当の論理」というのはおそらく「言葉として表出されるまでにくぐりぬけるプロセスの豊かさ」とでもいうべきものではないかと思う。人が何を感じているのかに想いをめぐらすことができるか、人と人の関わりにおける一致とズレのようなものをどれだけ透視できるか、ある言葉が口から発せられるときに結局口に出されずに終わった(拾い上げらずに捨てられた)表現がなぜそうだったのかに想像が及ぶのか、などなどの問題といったらいいだろうか。3月9日のこのブログで「松下政経塾」を取り上げた時に、同塾出身者について「スキルだとかゲームだとか、スキームだとか、そんなカタカナ語を多用するいわば現代合理主義っ子という感じ」と書いたが、このこととつながるような問題だと思う。そして実は「論理はある。しかし本当の論理がない」という現象は今の若い世代(30代半ばより下)の多くに共通して見られる傾向のようにも思う。もちろん若い世代でも「本当の論理」をもつものもいるし、中高年世代でもダメなのは多い。しかし、こうした印象を30代半ばより下の世代に覚えるのは否めない。そして問題はなぜそうなのか、ということだ。もちろん例えば「コミュニケーション力の欠如がなぜ生じているのかの問題だ」といった瞬間、「論理はあるが、本当の論理はない」の次元にすいーッと吸い込まれてしまうことになる。まことに難問だが、いろいろ考えに足る大問題だ。