時代は“新コーハ”なのだとか・・2006年11月27日 22:33

きょう発売された『AERA』(12/04号)。巻頭記事が「『コーハ』で行こう」。“硬派”ではなく “コーハ”。ひたすら軽いことがよしとされてきたのが変わり目を迎えつつあるのでは、という 観点で組んだ記事だ。朝日放送(大阪)の夕方の生放送番組「ムーブ!」は、「グルメ、温泉、 お笑い」の3点セットから脱皮し、「毎日3~4項目のニュースを取り上げ」それを「コメンテー ターがスタジオ内でトークする」スタイルに変わった。しかもコメンテーターには評論家や学者 などの「物書き」だけがあたる。「芸人を交ぜて出演させると、コメンテーターの人が、話す内容 のレベルを下げてしまう」から。いわば昔風のまじめ番組といった感じの番組登場というわけだ。

光文社が9月に 創刊した“古典の新訳文庫”。 How-toもの全盛の折、古典を新訳で出しはじめた。それがうけているらしい。カント『永遠平和 のために/啓蒙とは何か』、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』、バタイユ『マダム・エドワルダ /目玉の話』などが創刊時に刊行され、ついでレーニン『帝国主義論』やブロンテ『ジェイン・エア』など も。

売れる背景には何があるのか。『AERA』の分析はこうだ。 絶対的な価値観を失った時代、このもとで多くの人々に共通するのが「不安感」ではなかったか、と。「サラリー マンは成果主義の導入や大会社の倒産で、学生は『超氷河期』と呼ばれる就職難で、『いますぐに役立つ もの』を探した。その結果が資格ブーム・・(であり)、ハウトゥー本人気だった。ここにいま変化 が生じ始めている。ただし「失われた10年で失った自信を取り戻そう。だから憲法改正だ。北朝鮮が核を 持った。だから日本も核武装しよう――。」という“コーハ”ともシンクロする、あやうい変化でもある。

おそらく“爆笑”が「憲法九条を世界遺産に」と“マジ”になるのとも通底しているはずだ。 『AERA』の中で高村薫がまっとうなコメントを寄せている。「いま古典を若い世代が自発的に読もうと しているのなら、救われる思いがします。読んでみて、すべて理解できなくともいいんです。『わからない ことをどれだけ持っているか』が人生の豊かさじゃないでしょうか。」そして「ゆとり教育」の問題のどこ が悪いかといえば「わかる内容しか教えなくなったこと」だともいう。要するに「考えることの楽しさ」が すっかり蒸発してしまったということを言っている。

しかし、どうだろう。へたに“コーハ”が 流行るのはどこか胡散臭くはないか?私たちは、まだまだ“爆笑”の果てまでは見ていないというべきでは ないのか?バラエティ番組の下品さも、もうこれ以上は下げられないところまでは行っていないのではない か?おもしろうて、やがて悲しき・・の機微こそ必要なのではあるまいか。自らワレに還ることこそ・・。