グラフィティというストリート・アート2009年08月02日 17:14

NHK『日曜美術館』。
きょうは「20世紀メキシコ美術」。
アーティストが,メキシコ革命(1910年)後の
メキシコ人のアイデンティティを
美術を通して探求した背景に迫った番組。
西欧の近代革命とは違って,
スペインによる植民地以前(の共同体社会)に戻る試み
としてのメキシコ革命に
焦点をあてた企画であった。

とくに印象に残ったのが,
ゲストスピーカー今福龍太が,
メキシコ人のアイデンティティというのは
他者性ととらえるべき概念
であると説いたところ。
アイデンティティは,
日本では同一性に対応するが,
司会の姜尚中によれば
韓国では正体性とのこと。

メキシコの他者性には,
他者とのかかわりによって形成された自己,
という意味合いがあるらしい。
メキシコ革命後に再興された共同体社会が,
その後崩れていく経緯を辿った際に,
その旧い社会関係を凝視した他者の眼を
取り込んだ上で
捉え返された再帰的概念なのである。
省察的・内観的なのである。

印象に残ったもうひとつ。
グラフィティと呼ばれるストリート・アート。
わが国でも,しばしば見られ,
むしろ顰蹙の対象となっている
街のシャッターやコンクリ壁の落書き,
あれをアートに変換したようなもの
といえばわかりやすい。
若ものが,なぐり描く落書きを,
若者の発するひりひりする現実感の表れと見て,
これを圧殺するのではなく
アートとしてとらえようという
発想の転換が生み出した作品ということになる。
表現行為として後押しすることが,
落書きの範疇を超えて,
現実と切り結ぶ作品にまで
のぼりつめることを示している。

そこで,昨日の大学のオープンキャンパスのシーンを思いだす。
これまでと同様(昨年一昨年
いったい何をしにやってきたのか
不思議としかいいようのない
“お客様たち”が
今年も数多く訪れてきてくれた。
ワックスなのかムースなのか不明だが,
とにかくトイレの鏡の前で
髪にスプレーをかけ,
ブラッシングしたり,
掌でなでたりを繰り返す男の子。
けばけばしい化粧で闊歩する女の子。

こうした自分の身体をキャンバスとする“表現”が,
実はひりひりしたアクチュアリティを
伏在させており,
そうした彼らが
オープンキャンパスに
やって来てくれたのではなかったか
と考えると,
メキシコのグラフティというのが,
切実に出口をもとめる若ものへの対応は
かくあるべしと教えてくれるという意味で
大いなる示唆を示しているように思われるのである (^^ゞ  。

トイレで「近代」のきわみを想う2009年08月09日 14:06

世はまさにモダンのきわみを
めざして突っ走っているかのようだ。
近代の次というのではない。
窮極の近代ということである。
ある建物のトイレに入って思った。
事の仔細はというと・・。

最近いたるところで,
点灯スイッチのないトイレが増えている。
利用者が入ると自動的に
灯りがともるようになっているあれである。
スイッチ不要の仕組み。
センサーが作動するのである。

が,このセンサーが問題なのである。
トイレで,
例えば2分間不動の姿勢を保ったとする。
その場合いかなる事態が生ずるかというと,
灯りがすぅっと消えてしまうのである。
センサーは
人間の動作をとらえる機能をそなえているが,
人間存在それ自体を
認識する機能はもちあわせない。
動く物体をキャッチすることはできても,
身動きせずに,
思索(denken)する人間主体は
射程には入らない。
奇妙と言えば奇妙であるが,
とどまることを知らず,
ひたすら走り続けることを,
変化を重ねることを
善しとする「近代」であってみれば
当然のことと思わねばならないのである。

トイレに入って「近代の果て」を思い巡らす時代,
否,正確には
「近代の果て」をじっと思索することの出来ない時代
これが現代というわけである。
お試しあれ!
Ach! Pfui!

歴史的特異日「8・15」2009年08月15日 21:57

一年の中で,不思議な(singular)ことに
ある特定の日に,
同一のある気象現象(晴れや雨etc.)が現れる日がある。
これを気象特異日と呼ぶ。
東京オリンピックの開催日となった10月10日が,
その典型例としてよく知られている。

気象の特異日に対して,
いわば歴史の特異日のような日が
8月15日ではないかと思った。
今朝,NHKラジオの「今日は何の日」を聞いて
ふと想像したのである。
ラジオでは,
1945年の敗戦記念日と
1969年のウッドストック・フェスティバル(史上最大のロックの祭典)
などを伝えていたが,
1971年のニクソン・ショック(金・ドル交換停止)のことも
取り上げていたからである。
サブプライムローンの問題だって,
もとをただせば
金ドル交換停止(金本位制の最終的崩壊)に行き着く。
資本主義においては,
最終的に経済の制御は
金と結びついた貨幣が
その基本機能をになうからである。
その基本がうしなわれたのがニクソン・ショックであり,
これをきっかけに変動相場制への転換が
各国で五月雨的にはかられた。
金本位制の最終的崩壊ののちも,
ドルが基軸通貨の地位を保ったから,
アメリカはドルの無制限な散布が可能となり,
これが世界中に過剰ドルとして堆積して・・,
というのがそのあたりのストーリーにほかならない。

1971年8月15日に,
いまの世界政治経済のあり方が規定されたのである。
そこで歴史的特異日の発想にとんだというわけである。

Googleで検索すると,
「歴史データベースon the Web」
というのがあった。
それによれば・・,
確かに8月15日は世界史的特異日
と呼べそうな気がしてくる。
例えば,
1549年フランシスコ・ザビエル鹿児島上陸
1573年室町幕府滅亡
1769年ナポレオン誕生
1867年英国第2次選挙法改正(都市労働者に選挙権)
1900年義和団の乱鎮圧

そして先に書いた1945年 1969年 1971年がある。
歴史的特異日と呼んでも差し支えないのではあるまいか。

そういえば
1996年には丸山真男が亡くなっている。
彼は,この歴史的特異日を選んだのだろう,
きっと・・。

受験生への「大学図書館」の開放2009年08月22日 22:13

勤務先の図書館に
「受験生の皆さんへ(夏休み大学図書館開放)」
という〈お知らせ〉が出ている。
夏季休暇中,図書館を(というより閲覧室を)
受験生に開放するようになって3,4年が経つ。
長期休暇の期間,
「受験生」に図書館を開放する大学が増えて,
そのバスに乗り遅れまじ,と始めた。
利用する受験生には,概ね好評のようであるが,
その数は高がしれているのが実態らしい。
土日は閉館で,
いわゆるお盆期間も使えず,
利用できるのは夏季休暇の間の,
わずか11日に過ぎないからであろう。

他がやっているからとか,
大学のイメージアップになるだろうとか,
あわよくば受験してもらえるのでは,
といった打算だけで試みているのが
見え透いているからといってもよい。

ところで,
受験生への大学図書館の開放というのを,
受験生の「自習空間」という観点から眺めてみると
別の問題が見えてくる。

最近ではファミリーレストランが「勉強全面禁止」を謳い
公立図書館が
持ち込み資料だけによる自習の規制
をはじめているからである。

まず「受験勉強」と「勉強」の区別があり,
自習空間としてのファミレス,公立図書館から
「受験勉強する者」が排除され,
ついでファミレスから
「勉強する者一般」が
締め出される流れが出来上がった。
ファミレスというビジネス空間にとっては,
ランチや安いドリンクで
長時間居座る者は,
受験生だろうが,読書人だろうが,
ひとしなみに「勉強組」として
回転を阻害しつつ,
営利の妨げとなる以外の何ものでもないのである。
ファミレスなる空間を
公共空間と見誤ってはならないと,
ファミレスは主張しているのである。

しかるに,公立図書館の存在は大きい。
そこでは「勉強」に
「受験勉強」と「非受験勉強」がある
というような認識は捨てるべきだし,
さしあたり
「持ち込み資料だけ」で「勉強」しつつ,
図書館の蔵書へと拡張する遊び
を受け入れるのが当然であろう。

大学の図書館もまたしかりである。
受験生にカイホウすると同時に,
大学図書館自体が
「打算」からカイホウされねばならないのである・・。