「最高権力者」の「心の問題」2006年03月02日 21:40

今朝の朝日新聞は「オピニオン」面で、“靖国参拝「心の問題」か”を特集している。小泉が自分の靖国神社参拝について、憲法19条で「思想・良心の自由」が保障されているのだから何が問題なのかわからない、と繰り返しているのを取り上げたものだ。これまでいろいろ揺れ動いてきた「政府解釈」や「裁判所」の判断を整理する一方で、憲法学者樋口陽一の談話をのせている。これがよかった。「憲法は公権力の行使者の言動に制限をかけるもの」と基本中の基本のところを押さえた上で「小泉氏の論理の矛盾は、内閣総理大臣という最高権力者にかけられている憲法の制限を取り払う根拠に、もともとは権力者を縛るはずの憲法を持ち出していることにある」とばっさり切っている。実に明快で歯切れがいい。そして「最高権力者が自らの意のままに振る舞うために『心の自由』を持ち出す一方で、良心に照らして個人がしたくないことを無理にさせるという強制が現実に起きている」として“日の丸”、“君が代”強制問題を例に挙げる。結局「近代が前提としてきた、権力を制限して個人の自由を守るという立憲主義の考え方とは全く正反対のことが起きている」と喝破し、同時に「公権力を持つ人々が心のままに行動する『公の私化』」が進んでいるともいう。「公の私化」は、経済領域では公共的なものよりも私益が優先されるという形をとり、政治の領域では例えば総理大臣の言動に心の問題を持ち込むという形で現われているという。憲法を考え抜いてきた研究者らしい、透徹した見方だと思う。それで想い出したことが1つ。数ヶ月前に勤務先の大学で広報誌の編集長をしている同僚が、法学部の若い憲法学者に「いま注目される憲法問題」について執筆を依頼したら、あっさりと断られたと言っていたことがそれだ。引き受けられない理由は「憲法問題で発言すると、それ以降は色眼鏡で見られるから」。何のための憲法研究?、などと問うてはならない。嗤ってはならない。このいわば究極の合理主義、絶対的な客観主義が、いまの研究者たちが競って身につけようとする衣裳(モード)なのだから。

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