牛乳の戸配復活2006年03月03日 11:30

“まず飲む牛乳” (糸井重里)のコピーが出回ったのはいつ頃だったか。今朝のNHKテレビ(総合)で「牛乳の宅配(戸別配達)復活」が取り上げられていた。私たちの世代にとっては、朝は「牛乳瓶のふれあう音」で目が覚めたというのが記憶の1つだ―もちろん「かつお節削りの音」も懐かしい。ともあれスーパーマーケットが燎原の火のごとく全国を席巻した70年代~80年代に瞬く間に廃れてしまった「牛乳の戸別配達」が再び利用され始めたらしい。そのキーワードは端的に言えば「個別対応」と「高齢化」と見た。東京の例では、客が希望する時間帯に届けるケースが紹介されていた。朝に届ける固定スタイルではなく、客の生活日常のサイクルにあわせてということだ。カウンターがあるちょっとした洋風居酒屋のマスターが、夕方仕込が終わり開店までの時間、届けられたばかりの「牛乳」を飲むシーンが映しだされていた。「飲みたいときに新鮮な牛乳を飲める幸せ」というようなことを言っていた―商品としての「牛乳」に仕上げたのは実は朝だった、ということはないのかしらん?と思ったものの、これは追求しないでおく。ボトルの大きさもいくつか用意されていて、客の好みのものを届ける。要するに牛乳配達が、個別対応の形で行われているということだ。ほかに千葉のケースでは、高齢者の自宅に牛乳を届ける際、配達を担当する、すべて30代~50代の女性が、客とのコミュニケーションも届けることが紹介されていた。客が牛乳の届くのを待ちかねている様子がリアルだった。「届け手」に立ってみれば客はそれぞれ異なり、話す内容も、会話のスタイルも相手に合わせる工夫が必要だろうから、これも「個別対応」の範疇に収まるとも考えられる。最近、ある会報誌(857号)に「ITの発達による『個』の膨張」という小論を書いたが、「個別対応」がビジネスを左右する動きは“残念ながら”時代の主流になっているのである。“残念ながら”というのは、「個別対応」の仕事(労働)の厳しさもさることながら、「個」、「個人」というのは、あくまでも「社会構成上のフィクション」でしかなく、実は「われわれは共生体」(西垣通)なのだという根本のところがわたしたちの意識からデリートされてしまうからだ。

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