フリーペーパー隆盛の行く末2006年06月07日 19:19

フリーペーパー(無料誌)の成長がとまらないという。今朝の『日経MJ』(第3面)に「フリーペーパー 雑誌顔負け」が載っている。全国のフリーペーパーは現在950社1,200誌(日刊+週刊)。発行部数は、リクルートの無料誌を含めるとすでに3億部を超え、有料雑誌と並ぶ。雑誌取次会社を通さずに自由に配布できるので参入障壁が低い分、乱立気味の傾向をもつ。昔の“3ごうでつぶれる”といわれた「カストリ雑誌」以上に、出ては消えの状態なのだろう。

もちろん、同記事のなかでは、①広告の比重が大きかった従来型から、記事のウエイトが大きいタイプへの転換が見られるということ、しかも記事は②特定の読者層を想定するという意味でターゲット・マーケティングとして発行されるということ、さらに③雑誌だけでなくフリーDVDやフリー・ネット配信なども台頭し始めたということ、などが注目される動きと言ってよい。

とはいえ、無料情報提供モデルとしてこれまで最も影響力を発揮してきたテレビ(民放)の番組が、視聴率という名の「葵の印籠」を根拠におしなべて“バラエティ一色”となったことを念頭におけば、おそらく読者の反応はネットで回収というモデルが基本になるであろうから、編集にウエイトがかかるといっても、クオリティの高さは期待できそうにないというのが正解か。つまり、それこそホリエモンがニッポン放送株取得の行動を起こす前に語っていた「世の中の意向はアクセスランキングという形で出てくるんですから、その通りに順番並べればいい・・中略・・人気がなければ消えていく、人気が上がれば大きく扱われる。完全に市場原理。我々は、操作をせずに、読み手と書き手をマッチングさせるだけ」というのが妙にリアルな話として想い出されるのである。しかも、実は費用を広告でまかなう無料情報提供モデルは、雑誌にとどまる理由はないと考えられるのも「こわい」ことだ。活字離れの傾向が深まるなか、「雑誌を無料で配る試み」は「れっきとした本を広告付きで無料で配る試み」へと拡がることも十分に「想定内」のことといえそうだからだ。

上場廃止の選択―「すかいらーく」の経営者2006年06月08日 22:01

国内最大の外食チェーン「すかいらーく」が、経営陣によるMBO(Management Buy-out)の実施後、株式を非公開 とする方針を固めたとか(日本経済新聞 本日朝刊 14版 一面トップ)。 Webでは正式決定を伝えている。 外食の国内市場規模は、1997年をピークに縮小しつつあり、少子高齢化の傾向のなかで、かつてのような増収増益の再現は困難と判断し、一部事業 の整理・縮小や新業態への転換をはかる道をめざすとすれば、短期的利益追求や増配要求を強めようとする「株主」と一線を画すのが得策と判断した、ということのようだ。上場してこそ可能となる「巨額の資金調達」や「高い信用力」をいわば捨ててもそれを補うメリットがある、と見ての判断なのであろう。先日、村上世彰逮捕に関連して「経営者支配の『逆襲』?」をエントリーしたが、まさに経営者支配を貫徹しようとする強い意思が表現されているように見える。投資ファンドなどに掻き回されてたまるか、といったところか。全株式を取得するとすればそれに必要となる金額は、2718億8300万円。国内で過去最大のMBOということだ。「株主資本主義」からの転換コストは安くはない・・。

Wカップ――プチ・ナショナリズムの幕開け2006年06月10日 12:40

Wカップドイツ大会が始まった。プチ・ナショナリズムの幕開けでもある。今朝の新聞を開いてちょっと驚いた。特に朝日の二、三面の『文藝春秋』と『中央公論』の広告。前者は「愛国心大論争」、後者は「こんな『国家』で満足ですか」とある。三面トップには 「通知表に『愛国心』190校」の記事も。W杯にタイミングをあわせたかのように「国家」「愛国心」がいよいよ花盛りを迎えたのか、と見紛いかねない勢いだ。もちろん、国会で本格審議が開始された「教育基本法の改正論議」が背景となっているというのが正解だ。

その点で、一昨日の朝日新聞(朝刊15面 12版 オピニオン)の「国家とは何か?」の企画は一読に値する。憲法学者の樋口陽一と法政思想連鎖史の研究家山室信一の対談。その最大のポイントは、現在、社会がかかえている論点が、民族国家(血縁や地縁を紐帯とするまとまり)と国民国家(すべての国民の共有物である公共社会としての国家。人々が約束を取り結びつつ形成するフィクションとしての国家)のせめぎあいにある、と明確にしていることだ。日本の近代国家を設計(デザイン)した井上毅の「君主は人民の良心に干渉せず」との言説を紹介しているのも注目される。「君主といっても自分の理想を臣民に押しつけたりしてはいけないし、それが立憲制だということを当時の政治家は理解していた」(樋口)と。しかし、もちろん「明治国家では、人心統合の機軸として天皇を目に見える神とした」がゆえに「内村鑑三や創価学会の牧口常三郎などは(が)内心の自由を求めて闘った」のであり、その「歴史のうえに現憲法がある」(山室)。非常に含蓄のある理解ではないだろうか。血縁や地縁というつながりを(いわゆる愛国心という心の問題を)「国家」次元にまで貫こうと試みることの負の問題を浮き彫りにする主張と考えられるからだ。人々の交流は、国境を越え、単なる「旅人」ではない次元でますます拡がっている。様々な人が様々な土地に居住する。とすれば「そこに住む人たちが国境を越えて公共社会(リパブリック)をつくるという新たな国民国家論を期待したい」(山室)というのは、「国家(論)」再考の手がかりとして大いに議論されてよいのではないか。

NHK改革に関する「新聞投書」に触発されて2006年06月11日 14:12

今朝の河北新報の投書欄。「NHKFMの放送継続望む」との声が掲載されている。竹中の私的懇談会がNHKのFM放送などの削減を提言したことへの異論である。懇談会は「民間のFM放送が普及しており、公共放送でやる必要はない」と削減の理由をあげているが、これは受け容れるわけにはいかない、と。なぜならば、自分は「クラシック音楽の愛好者であり、一日の大半をNHKのFM放送で楽しんでいる」が「民間ではまともなクラシック音楽は見当たらない」し「コマーシャルをしょっちゅう流さなければいけない」事情を抱えた民間では、「クラシック音楽のように長時間の音源はもともと無理」なのだから。放送のコンテンツ(クラシック音楽)の性質(曲の演奏が長時間にわたる)が、いわゆる公共放送というメディアを要求するという点に焦点を絞ったまさに正論である。

ここで「公共放送」というのは、情報に関する有料配信モデルの謂いであり、情報配信機関(放送局)が、公的な性格をもつという意味で中立的な立場が前提とされる機関による放送という意味である。したがって「民間による放送が普及している」ことを根拠に、それに一元化してかまわない、という議論はそもそも成り立たないというべきであろう。コマーシャルで中断されるという不快から自由に情報を取得したい、何かに偏った視点、例えば大スポンサーの顔色をうかがう姿勢、で切り取った情報というのは遠慮したい――この点では、政権与党寄りの色合いを否定し難いいまのNHKにも大いに問題はある――者にとって、「民」があるから「官」(公共放送)は不要、ということにはならないのである。

それにしてもコマーシャルによって流れが中断される番組を見続けることのストレスから自由にはなれないものか。あるいは、せめて鑑賞に堪えうる広告(コマーシャル)表現が出てこないものかと思う。